私の不便が私の益
「不便=労力がかかる」とナイーブに定義できる範囲内で考える場合、スポーツや家庭菜園などの「労力をかけること自体を楽むこと」を不便益に含めても良さ そう。この場合には犠牲になってる人は想定できる?
自作PCを例にとっても,
- PCの自作そのものを(模型製作のように)楽しむ.作ったPCを使うのはあくまで副次的.
- 作業にPCが必要.買うとコストがかかるから(しかたなく)自作する.
の二つでは別の種類の不便になりそうです. スポーツや家庭菜園は前者の仲間のような気がします.
ふむ。しからばPC自作でもしわ寄せを受ける人が居ない場合がある、つまり、幸せ量保存則は常には成り立たない。けれど益を感じるか否かは状況に依るというのは否定できないわけですね。
ただの不便と不便益との判断基準は?
心理的にATMというマシンマシンしたものに抵抗感を示して不便益に分類したくないだけで,キー配置ランダムという一見すると面倒くさそうな“手間”のもつ益,に着目するという意味では不便益研究の範疇ではないでしょうか?別に銀行窓口でお姉さんとの会話をさけて,機械と無機質なお金のやりとりをするシステムとしてのATM全体を肯定しようというわけではないのですから....
製品そのものを不便益として分類するのではなく,機能や構造に着目し,それに対するユーザの働きかけ,あるいは認知,といったインタラクションそのものを分類対象として見据えていくことが大事だ,という分岐点なのではないでしょうか?
たまたま「入りくんだ街路」がうまく機能した場合にそこに注意の焦点が合って「なかなか良いかも」って感じる. 意図して街路を複雑にして「どうですか?」と言われたら ボタンの配置が変わるATM同様「なんだかなぁ」って感じるかも.という解釈はどうでしょうか. ATMのボタンも,もっとうまくデザインすれば不便益に行き着くのだけど, まだそこまで洗練されていないという立場です.
線引きと言えば、wordもLaTeXもそれぞれに思い通りにならないことがある。個人的には前者はただの不便で後者は不便益を感じる。なぜだろうと自問したことがあるのですが、その時は「どないせぇっちゅうねん」には答えがあるが「なんでやねん!!」には答えてくれない、つまり不便が対象系理解につながらないから word を「ただの不便」 にしました。
TeXは本当に対象系理解につながっていますか?
それはTeXのメカニズムに関する理解ですか??
WordでもWordの癖みたいなものは見えてきますし,文章を書く,という構造や組版の性質,機微みたいなものはどちらでも獲得 (する根性があれば (^o^)), できそうな気がせんでもないですが...
Wordに感じておられる一種の嫌悪感?みたいなのは,期待していないのに勝手におしつけられるパッケージ的要素の機能集合ではないでしょうか?「勝手にそんなことしてー」みたいな.
私は先の考え方に近いです. word のどこに何があるか分からないメニューの構成は,知らないとただの不便ですし,覚えたとしても,当たり前に機能が使えるだけです. texは,コマンドを覚えるまではいちいちリファレンスを引かなければならないという不便がありますが,覚えてしまえば,文字入力中に思考を中断せずに,キーボードから手を離すことなく記号などの入力が可能になるという益があります.(他にも,好きなエディタがが使える,sshで編集ができるなどなど)
対象系理解と一括りにはできない益ですね。指摘されたように私が LaTeX という文書フォーマッタの内部を理解したかと言われると、ウーンどうかな、状態ですので、ひとまず対象系理解は取り下げますね。
都市デザインの話は、どんなに道路が複雑であっても、地元住民は土地勘があるのでそんなに不便ではない。一方、外部のひとは土地勘がないから、本当に不便というだけのような気がしています。つまり、都市デザインの話は、不便益的システム論とはちょっと違うのか、もしくは「対象系理解」や「自己充足性」以外に重要な軸があって、私がそれに気づいていないような気がします。 #「土地勘がある」≠「対象系理解」と思っています。
能動的工夫・対象系理解 (第三者に対する、も含む)・自己肯定は, 研究立ち上げ時 (see, initial home page ) の仮説でしかありませんから、別の軸も探さないと。