不便益システム研究所

不便益を考える!

日々の不便益

Archive for 2007年5月

インクルーシブデザインワークショップ

5月17日の雑談「知り合いの視覚障害の方から」 を読んでいて、インクルーシブデザインワークショップを思い出しました。

不便益の一つの側面は、便利追求の時に些細なこととして看過されたものごと の中に、実は重要な事象があり、それをを掘り起こして新たなデザインのカギとすることです。インクルーシブデザインワークショップをその掘り 起こしの一つの実践と位置づけられないか、と目論んでいます。

ワークショップで障害を持つ人に「何か不便なことはありませんか?」と問うても、「さあ」という答えが返ってくるだけだそうです。一旦便利なことを体験するまでは現状が不便だと気づかないだけかも知れませんが、「現状でも工夫次第で対応できることも少なからず」と気づかされました。逆に「よけいな御節介」的道具は、工夫を施すモチベーションを私たちから奪っている ような気がします。

無くても済んでいたものを無くては困るものにする。 これを無条件に「良いこと」と受け入れたくありません。

[計測自動制御学会 第34回 知能システムシンポジウム (‘97,3/15)資料, p.272]
テレビのチャンネルは ダイヤル式からプッシュボタン式に改良され,ほとんど力を加える必要がなくなり,リモコンの上にも配置できるという意味でも便利になり,さらには製造コストも低減し機械部品特有の故障原因もなくなった.このとき,ダイヤル式ならば「ダイヤルの向きとチャンネルが対応していた」という触覚による知覚を許しており,照明がなくとも操作できた,あるいは触覚でわかるまでに使い込んだことの自己肯定感やテレビへの愛着が生じる,などの瑣末なことは無視される.暗闇で操作可能にするならばボタンをLEDで光らせるなどの簡易な対処療法も可能である.しかし,多様なユーザを対象とするために後付け的な対応を重ねることは得策ではない.先のLEDで光らせる案は視覚障害者に とっては無意味であり,さらなる対応を重ねる必要がある.

知り合いの視覚障害の方から

今日は、目をつぶっても、銀行や郵便局のATMを利用できる事を初めて知りました。 早速、銀行のATMで実験しました。 感動に近いものを感じました。 場所さえわかれば、目がもっと悪くなっても、一人で引き落としや 振込みができると知る事は、やはり安心感があります。

そして今日、視覚障害者が自立できるように、色々と茶道や、華道の作法を取り入れた、日常生活の動作訓練の工夫を教えてこられた70歳(!)の女性が来られる講座があって、有給を取って話を聞いてきました。

今は、携帯電話、計算機、テンキー、色んなものに「5」の所に印が付いていますが、それがない頃、胡麻や、何か「点」になるものを、テープで貼って工夫して教えていたそうです。 後で、それはいつの時代だったのですか?と先生に聞きました。(私が物心ついた頃から5に、印が付いていたのは知っていたので)そしたら1970年代の、万博の頃だそうです。

あと今はテレホンカード、ラガールカードなど、表の左下に、窪みや、切れ込みが当たり前のように入っています。 これも、やはりカードが出来た当初は、切れ込みが入っておらず、 先生がハサミで切れ込みを入れて、そして向きを視覚障害者にわかるように教えていたそうです。

今は、ピタパがあって、お金無しで、方向を考えずに、駅や何か買う事ができます。 便利な時代になりすぎて、何も考えずに、何でも出来てしまうという時代になってきています。「見えなくても工夫したら、出来る」という事を 感じなくなる時代になってきているんだと思います。そう感じれることは、不自由を感じていない頃にはあまり感じない類の幸福感をもたらしてくれる気がします。

この便利な時代に、70歳の藤原先生にお会いできて、工夫の喜びを教えて頂いて、本当に良かったなと思いました。

視能訓練士の不便益

視能訓練士の方から、コメントをもらいました。

面白い!今週、北海道の視能訓練士の学校で教えていて同じようなことを考えていました。

私がこの仕事を始めた1970年代(昭和54年頃)。 朝から晩まで、京都府立医大の眼科外来の廊下みたいなところでもうひとりの検査員と夏休みは300名を越える患者さんの視力を測っていた時期があります。

今のようなコンピューター内蔵の他覚的検査機器(近視や遠視や乱視を検出)はなかったから、いきなり「この人は近視か遠視か」をうたがい、レンズを入れながら、これまたリモコンなんかない時代だから5mの視力表と患者さんとの間を指し棒を持って行ったり来たり。でも、そのうち歩いてくる人、特にこどもの瞼の形状などをみただけで、乱視度数の予測がつくまでになっていました。

他にもマニュアルで職人技のように合わせる角膜曲率半径の測定では、角膜表目の微細な変化も一瞬でわかり、当時に私の視覚注意は随分鍛えられたものだと思います。こうした検査データはそのまんま、頭の中で広げられるのでその後のコンタクトレンズのカーブや度数の選択がとてもスムーズだったと思いますし、何より面白くって夢中でやってました。

今は検査員が画面を見てテレビゲームのようにスイッチオンで全てデータ化されそれに基づいて次ぎなる検査を行うので、検査と実際の眼鏡やコンタクトレンズ処方において気付きがなくなったように思うのです。 眼科検査機器の原理的なことはここ数十年以上何もかわっていません。高価な光学機器を使った一見便利そうな、費用がかかる機器は次々と出ているのですが視力はあいかわらず最小分離域や最小可読域で測っていて、 特にロービジョンの方達の見え難さや見えていることに目を向けた検査は皆無だと思います。

知恵を使わなくなって、人間はこのまま、ばかになっていってしまうのでしょうか?このことはインクルーシブデザインの話とはつながらないようにも思うけど、不便は人に知恵を授けますよね。

貴方の不便が私の益 その2
私の不便が私の益

「不便=労力がかかる」とナイーブに定義できる範囲内で考える場合、スポーツや家庭菜園などの「労力をかけること自体を楽むこと」を不便益に含めても良さ そう。この場合には犠牲になってる人は想定できる?

自作PCを例にとっても,

  • PCの自作そのものを(模型製作のように)楽しむ.作ったPCを使うのはあくまで副次的.
  • 作業にPCが必要.買うとコストがかかるから(しかたなく)自作する.

の二つでは別の種類の不便になりそうです. スポーツや家庭菜園は前者の仲間のような気がします.

ふむ。しからばPC自作でもしわ寄せを受ける人が居ない場合がある、つまり、幸せ量保存則は常には成り立たない。けれど益を感じるか否かは状況に依るというのは否定できないわけですね。

ただの不便と不便益との判断基準は?

心理的にATMというマシンマシンしたものに抵抗感を示して不便益に分類したくないだけで,キー配置ランダムという一見すると面倒くさそうな“手間”のもつ益,に着目するという意味では不便益研究の範疇ではないでしょうか?別に銀行窓口でお姉さんとの会話をさけて,機械と無機質なお金のやりとりをするシステムとしてのATM全体を肯定しようというわけではないのですから....

製品そのものを不便益として分類するのではなく,機能や構造に着目し,それに対するユーザの働きかけ,あるいは認知,といったインタラクションそのものを分類対象として見据えていくことが大事だ,という分岐点なのではないでしょうか?

たまたま「入りくんだ街路」がうまく機能した場合にそこに注意の焦点が合って「なかなか良いかも」って感じる. 意図して街路を複雑にして「どうですか?」と言われたら ボタンの配置が変わるATM同様「なんだかなぁ」って感じるかも.という解釈はどうでしょうか. ATMのボタンも,もっとうまくデザインすれば不便益に行き着くのだけど, まだそこまで洗練されていないという立場です.

線引きと言えば、wordもLaTeXもそれぞれに思い通りにならないことがある。個人的には前者はただの不便で後者は不便益を感じる。なぜだろうと自問したことがあるのですが、その時は「どないせぇっちゅうねん」には答えがあるが「なんでやねん!!」には答えてくれない、つまり不便が対象系理解につながらないから word を「ただの不便」 にしました。

TeXは本当に対象系理解につながっていますか?
それはTeXのメカニズムに関する理解ですか??
WordでもWordの癖みたいなものは見えてきますし,文章を書く,という構造や組版の性質,機微みたいなものはどちらでも獲得 (する根性があれば (^o^)), できそうな気がせんでもないですが...
Wordに感じておられる一種の嫌悪感?みたいなのは,期待していないのに勝手におしつけられるパッケージ的要素の機能集合ではないでしょうか?「勝手にそんなことしてー」みたいな.

私は先の考え方に近いです. word のどこに何があるか分からないメニューの構成は,知らないとただの不便ですし,覚えたとしても,当たり前に機能が使えるだけです. texは,コマンドを覚えるまではいちいちリファレンスを引かなければならないという不便がありますが,覚えてしまえば,文字入力中に思考を中断せずに,キーボードから手を離すことなく記号などの入力が可能になるという益があります.(他にも,好きなエディタがが使える,sshで編集ができるなどなど)

対象系理解と一括りにはできない益ですね。指摘されたように私が LaTeX という文書フォーマッタの内部を理解したかと言われると、ウーンどうかな、状態ですので、ひとまず対象系理解は取り下げますね。

都市デザインの話は、どんなに道路が複雑であっても、地元住民は土地勘があるのでそんなに不便ではない。一方、外部のひとは土地勘がないから、本当に不便というだけのような気がしています。つまり、都市デザインの話は、不便益的システム論とはちょっと違うのか、もしくは「対象系理解」や「自己充足性」以外に重要な軸があって、私がそれに気づいていないような気がします。 #「土地勘がある」≠「対象系理解」と思っています。

能動的工夫・対象系理解 (第三者に対する、も含む)・自己肯定は, 研究立ち上げ時 (see, initial home page ) の仮説でしかありませんから、別の軸も探さないと。

貴方の不便が私の益 その1

バーミンガムのバスの不便さから話が進んで、「貴方の不便が私の益」に。

不便益とだたの不便、再び

「貴方の不便が私の益」は、絶対に不便益に含めたくない、ただの不便。

  • 旅行者の貴方が不便でもバス会社は設備投資が少なくて済むバーミンガムのバス。
  • 満員バスを我慢する貴方の不便のおかげで私の生活道路は安全。
  • 視覚障害者には全く使えなくなった「ランダムにキー配置が変わる ATM」 のおかげで泥棒に背後から覗かれてても安心。

でも、微妙なのもあるぞ。

  • 行き止まりやループがあって、通り抜けを試みる外部の人には不便だけど「生活道路につき通り抜け禁止」の看板よりも効果がある私の住宅街の路地 (金沢の場合は、戦国時代に防衛のために城下町の街路を迷路状にしたんだっけ)。
  • プッシュボタンのように見えるが本当はスライド式な私のカバンの開け口は、スリの皆さんには不便だけど私は安心。

ちなみに視覚障害の人はランダムにボタンの配置が変化することで, まったくATMを自立的に使えなくなってしまったとおっしゃってました.

ボタン配置が メリット デメリット
固定 指で覚えられる 泥棒が背後から指の動きを推定できる
ランダム 泥棒にわかり難い
指で覚えないので頭をつかう
指に迷いが生じて面倒
番号を指の動きで覚 えられない
視覚障害の人はムリ

実際,メリットとデメリットが表裏一体背中合わせなのだと思いますが,指でなく頭で暗証番号を記憶する,というのはATMのように週1から数週間に1回の 頻度と,PCのパスワード入力のように,人によって利用頻度がまったく違うの で,頭と指の記憶バランスに影響してきそうです.毎日PCを使うユーザのキー ボード配置が毎日変更されると,ウッキー (>_<)/ と叫びそうです

Windows VISTA のボリュームライセンスの取得でMSDN-AAとすったもんだのやりとりのすえ,のべ4回もVistaをインストールしなおした挙句,けっきょくKMSとかいうキー管理サーバーをたちあげ,しかも25台“以上”が常時アクセスしないとボリュームライセンスが割り振られないというわけわからないライセンス認証システムの不便さに「益」のつけどころがさっぱり分からない (>_<).

その2へ続く・・・

バーミンガムのバスは不便

バーミンガムのバスの不便さといったら…. という話から。

不便益とだたの不便

4月から4年生を4人見ることになったのですが,不便益的システムを実現すべく(十分な予算がなかっただけですが),研究に使うPCを自作,OS(Ubuntu Linux)のインストールを自分でしてもらいました.それなりに,計算機の造詣も深まったようですし,できたPCに愛着をもって接してもらえているような気もしますので,学生にとっての不便益は十分にあったのですが,PCの解る修士や博士が当然研究室にはいないので,全部,質問が私にきてしまい,結果として,私もUbuntuに詳しくなるはめになり,益もあったのですが,私にとってはただの不便の方が近かったです.

不便益的な不便とただの不便との違いは,後者は,システムとして当然機能すべき,サービスを受けるべきであるのにも関わらず,裏切られたときに,「あぁ 本当に不便」と思うことを指すような気がします.一方,前者は文字通り,不便を楽しんでいるかのように思えます.

バーミンガムのバス

ただ,それでも,心の持ち様に依存しない「ただの不便」は存在するとは思って います.たとえば,バーミンガムのバスは

  • 「バス停」にどこのバス停か書いていない.
  • しかも,電柱に本当に小さいバス停のプレートを取り付けているだけで, そこにバス停があることを知らないと,どこがバス停かわからない.
  • さらに,バスは次のバス停がどこかインフォームしない.

つまり,一回下見をしておかないとバスに乗ることはできないシステムになっているのです.もちろん普通は運転手にお願いしておくので,運転手とコミュ ニケーションを取れるという不便益があると解釈することは可能です.ただし, 運転手にはインド系が多いので,ヒンドゥー語のような英語を聞き取れる能力と,昔ながらのスペル・発音を有する地名を相手に言い伝える能力がないとバスの運転手とは会話することができませんが。

あと,バス停で待っていても,手を挙げない限り止まってくれません. ちょっとよそ見をしたせいで,バスが通り過ぎたことが2、3回ありました.

いやいや、これにも見方 (立場)によって益がありますよ。

  • カーナビが発達したおかげで渋滞を避ける「抜け道ルート」が表示されるようになりました.これは利用者にとっては便利に感じる訳です(実際には最短ルートではないので,時間が必ずしも短縮されるとは限らないけど、精神的ストレスは軽減される). でも、裏道を「生活道」として使っていた地元の人たちにとっては,外部からの交通量が増えて不便に感じます.
  • 京都の市バスは案内が整備されていてかなり便利です.ですから観光客も安心して使えるわけですが,シーズンになるとおそろしく渋滞して地元の人にとっては不便なことになっています.

分かりづらいバスのシステムは,利用者を制限すると言う意味では地元の人にとっては便利なのかもしれません(それを意識しているかどうかは別として).この場合は,観光客などが「面倒だから少し高くてもタクシーを使おう」ということになれば,交通手段の棲み分けが(無理矢理こじつければ重層性の保証?)が可能になります.京都の場合は道路自体のキャパシティが不足しているので,いずれにしても不便なことになってしまいますが.

バーミンガムの鉄道は?

ちなみに,電車も向こうの「on time」というのは日本でいうところの「定刻の3分遅れ」まで.一応,駅に次の電車がどれくらい遅れているか表示するシステムがあるのですが,いいかげんで,「on time」と表示されてて,3分ほどまって,あれ電車けぇへんなぁと思ってディスプレイをみたらいつの間にか「5分遅れ」と書いてて,じゃあ,あと2分くらいでくるのねと思ってたら来ず,ディスプレイを見たら「10分遅れ」に変わってて,20分に1本のはずの電車を結局15分くらいまったことはざらにあります.

さらに,電車は止まるところが決まっていないのか,決まっていてもだれも守っていないのか知りませんが,毎回止まる位置が違います.まぁこれくらいは,さすがになんとも思わなくなりました.

向こうにいたときに,尼崎のJR西日本の事故があって,「1分遅れを取り戻すために」や「オーバーラン」によってパニックになっていた運転手に関する報道に,同僚はびっくりというか,なんというか,理解不能な世界を垣間見た表情をしていました.

これも見方 (文化)によって益が違う例ですよね。つまり,時間通りじゃなくてもさほどは不便に感じていない。 この場合の益は「事故回避」でしょうか。