ご馳走とは、本来はゲストをもてなすためにホストが走り回って食材などを調達することだと言われている。 すなわち、時間を伴う手間がかかっている。 時間をかけずお金をかけたのでは単なる“豪勢な食事”でしかない。
工芸品には感じる価値を、我々は工業製品には感じない。
ここで、 「手間を想像できるか (可視的であるか) 否かが価値を決める」 という仮説をたてる。すなわち、工芸品を作る手 間は想像できるが冷蔵庫を作る手間は想像を越えていると考える。
時間を使って稼いだお金で電気アンカを買い電力料金を支払って子供 の布団を暖めるより、時間を使ってお湯をわかして湯たんぽに入れる方が喜ばれるという [福岡00]。どちらも時間という 手間をかけているのにである。これも上記の仮説を支持する。 お金を得ることに費やす手間は直接的ではなく想像が難しい。
年中トマトが食べれることは「旬を待つ必要がない」という意味で 便利である。 外国の食材が手に入ることも「外国に出向く必要がない」という意 味で便利である。ただしいずれも、スローフードが指摘している事 態を引き起こし、現実感や可視性を喪失させる。
つながり感 (コミュニティデザイン)
[福岡00] から、スローガン的な文章を抜き出してみる。
- 金銭や欲得が絡まない触れ合いこそ、人に満足感を与える気がする。相互扶助が金銭を介するサービスという形態になったとたんに空 疎感が芽生え、心の隙間を埋めるためにさして必要ではないモ ノや刺激を求める。
- 人は、自分が苦労してこしらえたり、誰かが自分のために作って くれたと思うと、より深い満足感を覚える。
これらの感想は直感的ではあるが、皆が共有する普遍性も感じられ、やはりこれらも先の仮説を支持する。
ここで空疎というのは、現実感がないことを意味すると考えられる。ボタンを押せば高い塔に登れる。切符を買えば東京に日帰りできる。スイッチを押せば夏でも涼しく冬でも暖かい。それらのサービスの背後で費やされているエネルギー、それを 購入するためのお金を得るために費やした時間や労力は実感を伴わない (可視的ではない)。
使い勝手の良さ (ユーザビリティ)
使い勝手の良さをあらわす「ユーザビリティ」は、やはり効率性と経済性を追求する視点からの定義と考えられる。 そこで定義される「有効・効率・満足度」という視点と比較すると、 「可視性」という視点は心理的な色彩が濃ゆく客観的な評価は困難ではあるが、無視することはできない。
便利と自動化
「便利」にする方策として最も多用されるのは「自動化」で あろう。選択の余地のない操作系列はシーケンサに書き込み、 人は予め用意された容易な「起動操作」を実施すればよい。 しかし可視性という視点からは様々な問題がある。
- 起動操作とそれに伴う状態変化との関連が把握し難い。
- 予期せぬ結果に至ることが観察された時に、中止する 術は物理因果から推測できない。中止する術も設計者が作り 込まねばならない。
さらにリスクマネージメントの分野でも「部分的自動化の問題点」として スキル低下とモチベーション低下の相乗作用が指定されている [片井98]。
さらに自動化は、手間を挟む余地をなくす。これは湯たんぽの例で示した ように「つながり感」を与える余地までなくすことになる。
[福岡00] 福岡賢正:たのしい不便-大量消費社会を超える, 南方新社 (2000)
[片井98] 片井修: 人間とシステムの関わり合いと知的支援 –チュートリアル–, 人工知能学会誌, vol.13, no.3, pp.339-346 (1998)