生命科学者の中村桂子先生の著書に、以下の文章があることを人づてに教えてもらいました。
中村桂子著「科学者が人間であること」p35(岩波新書)から引用
便利さとは速くできること、手が抜けること、思い通りになること。
次々と開発された危機はさらなる便利さをもたらし、それらの製品を生産する産業が活発化することで経済成長、つまりお金の豊かさが手に入りました。私たちはこのような変化を進歩と呼び、そのような社会を近代化した文明社会、つまり先進国の象徴として評価し、この方向で拡大を求めたのです。
しかし、「人間は生き物であり、自然の中にある」という切り口で見たとき、この方向には大きな問題があり、見直さなければなりません。なぜなら、それが前節で述べた生きものとしての特徴に合わないところが多いからです。
速くできる、手が抜ける、思い通りにできる。日常生活ではとてもありがたいことですが、困ったことに、これはいずれも生きものには合いません。生きるということは時間を紡ぐことであり、時間を飛ばすことはまったく無意味、むしろ生きることの否定になるからです。
同じように「手が抜ける」も気になります。手塩にかけるという言葉があるように、生きものに向き合うときは、それをよく見つめ相手の思いを汲みとり、求めていると思うことをやってあげられるときにこそ喜びを感じます。
科学を究めた人は、このように思うのでしょうか。当研究室のメンバの多くが師と仰ぎ、「不便益」という言葉を作った京都大学名誉教授片井修先生の考えと、とても近いように感じます。片井先生も、ソフトコンピューティングやシステム科学の専門家です。
片井流純粋不便益を少し日和らせて、不便益をシステムデザインの指針にしようと試みている当研究所の活動は、中村先生にはどう見えるのかが気になります。中村先生の言葉を借りて格好良く言えば「自然の中にある生物としての人間」のための道具や仕組みを考える活動、でしょうか。