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2011年度レポート解答例(その1)

「人工システム単体」→「人間–機械系」→「人間–機械–環境」と視野を広げていくと,「人工システム単体の最適化と効率化」という方針だけでシステムデザインをすることが出来ない場合が多くなる.その場合に採用すべきと思われる方針について論じよ.

回答例1
はじめに

「世界は感情で動く」というタイトルの本がある [sekai].この本を読めば(読まなくとも少し考えてみれば),人間とはそれほど合理的に物事を判断できる生き物でないことはそれなりに理解できる.私たちの思考は錯覚やヒューリスティクス,確証バイアス [human] などによって相当に歪んでいる.自由意志の存在がどうあれ,私たちが感じる「意識」は多くの情報が削ぎ落とされた結果である.人間の体に無数のセンサがあるとすれば,意識に上るのはセンサから得られる情報の100万分の1に過ぎない [users_illusion].私たちの脳はほんのわずかな時間で大量の情報を処理し,「意識」というコンパクトな計算結果を提供する.しかも,その処理にかかる時間遅れを私たちは感じることはない.それどころか,あたかも計算結果が出るよりも前に答えを知っていたかのように私たちは感じている [mind_time].しかし困ったことに,私たちは自ら下した判断についてそれがいかなる情報処理の結果得られたものなのか,ということを知ることはできないのである.もちろん,センサから得られた情報がすべて意識に上るとしたら,脳はたちまち機能停止に至ってしまうだろう.不要な情報を捨てることで,私たちは情報の洪水の中で即時に判断を下す(下しているように感じる)ことができるのである.すなわち,人間はそもそも物事を完全に合理的に判断するようにはできていない.むしろ,合理的判断を「諦める」ことによって思考の時間を大幅に節約している.

考えてみれば人間の進化の歴史とは,時間の節約の歴史であったといえる.おそらく「感情」も,時間の節約に貢献していると私は考える.感情の存在意義についてはいまだ確固たる説はないが,心理カウンセラーの下園 [shimozono] は「熊に出会った原始人」という例えを用いて感情が果たしてきた役割を説明している.その学術的な信憑性はともかくとして,自分より何倍も強い相手(熊)と戦うという選択は冷静に考えれば合理的でない.しかし,「怒り」という感情はその非合理な判断を即座に可能にする.そして実はその方が生存には有利であった,ということなのだろう.人類が登場してから20万年,少なくとも(日本に住む限り)私たちが日常的に下す判断が生死に直結するようなことはめったにないといえる.新たな文明が時間を節約し,それを前提にしてまた新たな文明がさらに時間を節約する,という繰り返しによって,私たちはとりあえず「ただ生きる」分にはさほど困らなくなったわけである.

だが不思議なことに,現代日本人は決して時間を持て余してはいない.むしろ,私たちの日常生活は驚くほど過密なスケジュールで構成されている.私はこれが不思議で仕方がない.時間はもう十分に節約されているはずなのに,なぜこれほどまでに私たちは忙しくなくてはならないのか.少なくとも人類はまだまだ「感情」という時間節約のプログラムの支配からは逃れられていない.私たちはこれからも感情に任せてさらに時間を節約し続けなければならないのだろうか?私はそうは考えたくはない.日本人はもう十分に時間を節約してきたのであって,もっと時間に余裕を持てるはずである.現代社会においては「余裕」と「無駄」は同一視されがちであり,冗長性$=$非効率という価値観が強く根を張っているように思う.しかし,私たちが「完全なシステム」を手にすることはできない以上,システムに一定の余裕(冗長性)を持たせることでしか予測不可能な外乱には対処できない.そして何より,「余裕」を持つべきは私たち人間である,というのが本報告の主張である.

「余裕」のないシステム

日本人はなぜ忙しいのか?答えは簡単である.技術革新によってせっかく捻出した「余裕」を,新たな技術革新のために使うからである.私は経済に関しては全くの素人であるが,世界で生き残るためには相手よりも努力して競争に勝つしかない,という考え方は相当に根強い.「2位じゃダメなんですか?」という言葉を一時よく耳にしたが,世間の反応は冷ややかであったように思う.確かにそれは一理あるだろう.もし明日からすべての日本国民が勤務時間を1時間でも短くしようものなら,おそらく資本主義国家としての地位は相当落ちてしまうはずである.

技術革新によって確かに時間は節約できる.今まで3時間かかっていたことが1分で済むようになることだって珍しくないし,肉体的な負担も相当に軽減されることが多い.少なくとも私たちは毎日食べていくために熊と戦う必要もなければ,重いものを持ち上げたりする必要もない.時間が節約されること自体はありがたいことなのであって,私たちの生理的苦痛を相当程度軽減してくれる.問題なのは節約した時間の使い方である.3時間が1分に短縮されたとき,私たちは節約した179分を休憩に充てることは少ない.たいていは仕事量が今までの180倍になるか,何か別の仕事が割り当てられるだろう.それで何も問題が無いようにも思えるが,果たして本当にそうだろうか?確かに働く時間は同じで肉体的な労力はむしろ従来よりも軽減されているかもしれないが,仕事量は確実に増えているのである.そして,社会はそれを前提として動いていく.扱う仕事量が増大していくということは,それだけ系としては不安定になっていくということである.そうやって潜在的なリスクを増大させていった結果,私たちは不安定な系と常に向き合わなければならなくなった.昨年3月に日本で起こったことは,まさにそのリスクが顕在化した結果であったといえよう.

機械システムに一定の「余裕」を持たせるということは,むしろ常識的に行われていることである.私たちは機械が完全でないことはわかっているし,高いコストをかけてシステムの完全性を追求せずとも,あらかじめ余裕を設けておけば問題なく機能する.情報の世界では信号に冗長性を持たせることが当たり前であるし,現在のほとんどの機械製品は多重系で構成されている.では私たちから「余裕」を奪っているのは何者であろうか?いうまでもなく,私たち自身である.これまで何度も述べてきたように,私たちは技術革新によって節約できた時間を「余裕」に充てるということをなかなかしたがらない.人間を系に含めたシステムを考えるとき,これはなかなか厄介な問題である.私たちがいくら機械設計に余裕を与えても,それを使う人間に余裕がないのでは「『余裕』のあるシステム」はあり得ない.人間が積極的に「余裕」を作り出そうとしない限り,人間を系に含めたシステムはいつまでたっても「『余裕』のないシステム」のままである.

余裕学:「余裕」を創出するシステムデザイン

前置きがずいぶん長くなってしまったが,私が理想とするシステムデザインの考え方についてここから述べていきたいと思う.少し驚いたのだが,社会における「余裕」について真剣に考えている人は意外と少ないらしい.大して調べたわけではないが,少なくともタイトルに「余裕」が付く本はほとんど見当たらなかった.「余裕学」という言葉を使っている研究者は,今のところ日本にはいなさそうである(ネーミングの問題かもしれないが).余裕学とはすなわち,もっと積極的に「余裕」の効用に着目し,日常生活レベルでの「余裕」の創出を人々に意識づけることを目指すものである.ここで注意しなければならないのは,単に仕事量を減らせばよい,ということを主張しているのではないということである.これは,「不便益」がただ「昔に戻れ」と主張するものではないことと似ている.重要なのは仕事量を減らすことではなく,日々増加する仕事量に対して人々にある種の動機づけを行うことである.

「余裕学」の考え方と良く似ていると思うものに,リスク・ホメオスタシス理論 [risk] がある.人間は自分の行動にリスクが潜んでいることをある程度理解しているが,ある一定の水準(目標リスク水準)まではリスクを許容する.そして,何らかの理由により当人にとっての主観的なリスクが減少した場合には,別のリスクを冒すようになる.すなわち,リスクの減少を余裕に充てるのではなく,主観的に感じるリスクが目標リスク水準に達するまではリスクを許容するのである.もしそうだとすれば,ある特定のリスクに着目してその低減を図る従来の工学的アプローチ(例えば,道幅の狭い道路を工事して道幅を広げるなど)は問題の本質的な解決にはならないことがわかる.なぜなら,人々が許容するリスクの水準が変わらない限り,あるリスクが低減しても別のリスクを冒してその減少分を補うだけであって,その人々が引き受けるリスク量の総和は変わらないからである.この問題への対処として,目標リスク水準を引き下げるように人々を動機づけるというアプローチが有効であることが示されている.

これと同じ考え方で,人々が日常生活において持っている「余裕」の水準を引き上げるよう動機づけることが可能なのではないか,というのが「余裕学」のモチベーションである.その具体的な手法には,目標リスク水準の引き下げとほぼ同じ考え方が適用できるだろう.「スピードを出すのは危険だからゆっくり走行しなさい」と運転者に訴えても,彼らが主観的に感じるリスクが目標リスク水準を下回っている限り,彼らはなかなか安全運転をしようとは思わない.しかし,「あなたの安全運転度に応じて自動車税が割引になります」と言われたら,彼らは進んで安全運転をするかもしれない.この例に関して言えば,目標リスク水準が下がったとも言えるし,「余裕」の水準が引き上げられたと考えることもできる.「リスク」と「余裕」の関係から考えても,「リスク・ホメオスタシス理論」と「余裕学」は密接な関係にあるといえるだろう.

もう少し別の例を考えてみよう.私は,「余裕学」を適用するにあたって日本の鉄道システムほど面白い対象はないと考えている.「余裕学」と着眼点は少し異なるが,日本人と日本の鉄道システムの関わりについては「定刻発車」 [teikoku] に詳しく述べられている.「君のところでは列車が遅れると社員を死刑にするのか?」という書き出しで始まるこの本を読めば,わずか10分の列車の遅れが都市の混乱を招くという驚くべき実態に問題意識を感じずにはいられないだろう.日本の鉄道システムもまた,人間を系に含むことで「『余裕』のないシステム」になっているのである.朝の通勤時間帯において,人々が「余裕」を持つためには鉄道システムをどのようにデザインすれば良いだろうか?駅設備の改善と言ったハード面での対処ももちろん重要であるが,例えば,利用者に少し早起きしてもらって早朝の空いている列車に乗ってもらうとか,混雑する快速ではなく普通電車に乗ってもらう,と言った動機づけも少し工夫すればできそうである.

繰り返しになるが,「余裕学」とは日常生活における「余裕」の創出を人々に動機づけることを目標とするシステムデザインである.それは,人々が自発的に「余裕」の水準を引き上げるような仕組みをシステムに組み込むことにより実現されると考えられる.人間が「余裕」を持つことで初めて,人間を系に含むシステムにも「余裕」が生まれるのである.

おわりに

現代においても,人間は感情の支配から逃れることはできない.「感情」というプログラムが私たちを時間の節約に向かわせているのだとすれば,どこまで行っても私たちは「余裕」を持つことはできないのかもしれない.しかし少なくとも,機械システムにおいては全く余裕のないシステムなどというものは考えられない.人間を系を含めたシステムに余裕を持たせるためには,人間が余裕を持つしかないのである.

私は時間節約のための努力を止めろと主張しているのではない.技術革新によって創出される「余裕」に,もっと目を向けるべきだと述べているのである.そうすることによって,確かに資本主義国家としての地位はいくらか犠牲にしなければならないだろう.とはいえ,ただただ仕事量を増大させて潜在的なリスクを積み上げていくのを黙って見ているのも忍びない.「余裕学」が本当に私たちの生活を豊かにするかどうかはわからない.しかし,「余裕」の水準の向上がシステムの安定に寄与することはおそらく間違いないであろう.

参考文献

[sekai] マッテオ・モッテルリーニ:世界は感情で動く −行動経済学からみる脳のトラップ−,紀伊國屋書店 (2009)
[human] 吉川榮和,仲谷善雄,下田宏,丹羽雄二:ヒューマンインタフェースの心理と生理,コロナ社 (2006)
[users_illusion] トール・ノーレットランダーシュ:ユーザーイリュージョン −意識という幻想−,紀伊國屋書店 (2002)
[mind_time] ベンジャミン・リベット:マインド・タイム −脳と意識の時間−,岩波書店 (2005)
[shimozono] 下園壮太:人はどうして死にたがるのか,サンマーク出版 (2007)
[risk] ジェラルド・J・S・ワイルド:交通事故はなぜなくならないか −リスク行動の心理学−,新曜社 (2007)
[teikoku] 三戸祐子:定刻発車 −日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?−,新潮社 (2005)