○ テレビのテロップは、聴覚に視覚を加えてマルチモーダルにしてくれる。分かりやすくて便利。
○ オノマトペは、人によって伝わり方が違うので不正確。「そこの角をビッと曲がる」っていったい何度?これは不便か?
○ 技言語は、具体的じゃないから分かりにくい。「舞い散る雪を拾うように扇子を動かす」って、一体どういう動き?「ビッきたらバッと打つ」って言われても、どう打ったらええねん。
● テロップは、情報保証という仕事を超え出すとウザイ。認知リソースも割かれる。笑うタイミングまで指定されるのは、誘導されてるのではと疑う(ホントは面白くないネタに笑わされてる)。同じニュースの内容でもテロップによって視聴者の受ける影響が変わる。学術書の和訳にも(単語の選び方などで)訳者に誘導されてる気がすることがある。
分かりたい事が分かれば良いのであって、分かってることをわざわざ文字にされるのは「バカにすんな」という気分になる。(→身体に障害のある人に「何か困ったこと、ありませんか」と聞くと、たいていは「さあ、取り立てては」と答えが返ってくる。自分なりの工夫で対応できてる事に「さあ、こんなに簡単にできる装置を開発しましたよ」と便利の押しつけをするのは、使用者が工夫も習熟もできない人だと思いこんでるのではないか)
※ マルチモーダルでない不便の益:解釈の多様性を許してくれる。自然と能動的に解釈する姿勢にしてくれる。使い方に工夫の余地を与えてくれる道具と通じる。
● オノマトペも技言語も、聞く方が納得すれば「わかった」ことになるもの。文章にして第三者に(一般に)伝えることは前提とされていない。無理に伝えようとするから第三者は分かりにくいと感じるだけ。2人にとっては「手首を緩めて秒速30cmで下方に….」と定量的に言われるより分かりやすい。一般に向けた「情報伝達」のための言葉ではなく、聞き手が許容するか否かが問われる「摺り合わせ」のための「文化を共有する」ための言葉。この対比は、絶対的か相対的か、基本動作かアジャストか、全体か個別か、という対比でも説明できる。例えや比喩との違いは、この点にあるのではないか。つまり、「技言語=第三者に理解不能な例え」と定義してみたい。暗黙知も「文章にすると本質が伝わらない」という性質で通じるところがある。
料理レシピの「塩少々」、テニスサーブの「一時の方向に振り出せ」、弓道の「大木を抱えるように立て」も、程度の差はあれ、定量的でなく、受け手によって好きに解釈できる。
※ ここでも、解釈の多様性を許し、能動性を誘う性質が見える。
○ 某**教授は、分かりにくくて「引っかかり」がある講義を心がけているそうだ。内容に興味を持つ学生は能動的になり、研究テーマに繋げて学者になった者もいる。反面、聴講に来なくなる学生も多い。「皆が同様に分かった気になり同様の成績を取る講義」と対比させて、「きれいに生えそろった芝生」と「少数の大木が育つために殆どの種が自ら朽ちて養分となるジャングル」に擬える話を聞いたことがある。
○ 分かりにくい看板も、「お!?」と思わせ注目させる。ユーモアがあると1人突っ込みまでしてしまう。あるべき方向に逆行することで「珍しさ」を演出している。入り口が分からない店、陸路ではアクセスできない料亭も、穴場感や「俺ならでは感」を演出している。
○ 「俺ならでは感」と言えば、某社のゲームソフトは操作が難しいから面白くてハマる。キャラは強くならないので、操作に習熟するしか強くなる方法はない。そしてそれは飽和しない(これ以上強くなり様がない、これ以上の操作はないという壁がない)。つまり最適操作が存在しない。人によって操作法や習熟過程が異なる→俺ならでは感。
※グローバルな最適が無いという不便(?)が個性反映、俺ならでは感、ハマることに繋がる。