我々は、新たなシステム論を展開する足掛かりとして不便 益に注目するだけであり、エコロジズムという市民運動の 促進を目的とするものではない。しかしそれでもなお、
不便益は
- 多少の苦労があってこそ愛着がわく
- 便利だ、不便だというのは視点の違いでしかない
という浅薄な議論に終始している 現状に対して、新たなシステム論はそこから議論を先に進める突破口になり得る。
また、「昔の生活に戻れ」という非現実的な主張と不便益とが同一視 されることも多いが、それらの違いは事例を数え上げて外延的に説明せざるを得ないのも現状である。これに対して、不便益のシステム論は内包的・理論的 説明を可能にするものと期待している。
隠れた問題の顕在化
ちょっとした不便の解消が隠れていた大きな問題を顕在化させる 例は枚挙に暇がない。様々な物事が関係ネットワークを通して 互いに影響しあい、安定していたのに、ネットワークの一部を 改変したためにネットワークが変容する。特に自然を含む系に この状況が顕著である。鶏が安いという便利と引き替えに、 大量薬づけ飼育が必要になり、伝染病の蔓延を助長した。
この事態は、本来の合理主義から外れるという意味での問題 を引き起こすこともある。 エネルギーやお金を使って通勤時間短縮のために 電車やバスを使っているのに、運動不足解消のために仕事が 終わるとジョギングをして時間を使うのは合理的ではない。
ローカルであることの意義 (社会構造)
無駄に廃棄されている間伐材を山から運びだして有効に利用すること が試みられた。しかし費用を試算をすると、 間伐材から得られるエネルギーよりも多くの輸送エネルギーが 必要であったといわれる。人が必要以上に密集して暮しており、 そこと資源のあり場所の物理的距離の遠さがこの問題を引 き起こしているのは間違いない。それならば、仮に人が適度な 密度で分散して暮せば良いのか? 人が密集した理由を考えれば答えは自明である。大量生産と 大量消費のおかげで我々は低コストで製造された物を低価格で 手に入れることができる。大量消費には人が密集する必要があ る。さもなければ販売のための輸送コスト (エネルギーも含む) がかさむ。 この問題を解消する一つの方法は、適当な密度で分散して生活する 人々が、資源をローカルに調達することである。 しかしそれは、数十年前に日本人が「不便である」からと切り放 した生活でもある。
このように不便益には、単に健康に良い、精神衛生に良い、便 利中毒からの脱却という精神論や宗教のような側面だけではな く、現在の社会システムの構造的欠陥を改善する方策という側 面もある。食事に注目すると、スローフードと呼ばれる運動も 精神論ばかりが強調されるが、社会構造に目を向ければ間伐材 の挿話と同根である。