ユニバーサルデザイン (UD)は、身体能力が異なっていても誰もが (ユニバーサルに) 利用できる製品・建物・空間デザインへの試み [古瀬E98,UD98] として知られる。
ロン・メースによるUDの定義にも、七原則 [UD98] にも、明示的には「便利」という言葉は使われていない。 しかし直感的には「誰にでも使える」ことは「便利である」ことの一つに数えてもよい気がする。この立場から見ると、 UD と「不便益」は逆の方向を目指しているように思える。
そこで、どのような時に我々は「便利」という言葉を使うかの調査をしてみると、「どの視点から見るかによって不便なものは便利である」という知見が得られる。しかしこれは周知のことであり、そのまま「不便益」の解釈とするにはあいまいであるし、あえて「不便益」という造語を使ってまで主張される内容とは考えられない。
また、この知見を「ある特定の立場で便利に凝り固まったデザインは、別の立場では不便である」と読み替えれば UDの主張と同調する。UDの3つの手段の内、特定の身体能力に対するバリアをなくすバリアフリーデザインは最後の窮余の策でしかない。
ただし逆に、不便益から「人によって視点が異なるのならば、ユニバーサルに便利なモノはあり得ない」という安易な結論が導びかれると、これはUDと対立する。 しかしもう少し掘り下げて考えてみると、 二者は本質的には通底するところがある [川上05]。
- まずUDに保障されるべきは「可視性」の高さである。可能な操作の選択肢と操作に伴う状態変化が無理なく推論でき、また実際に推論通りの挙動が示されなくてはならない。これは不便益における「対象系の物理的理解」に対応する。ただし、可視性といっても、物理的に見て取れることではなく、道具や設備を使うときにその背後にある他のもの (物理現象、自然、コミュニティなど) との緊密なネットワークが体感できることである。
- また、UDを阻害する要因の一つは「不適切な機能モジュールの切り出し方とその特定機能への過度の最適化」である。この事実も、さまざまな効用が切り捨てられてきた要因の一つが「特定機能に関して過度に便利な道具の使用」であると いう不便益の主張に通じる。
それでは不便な昔の道具こそUDのあるべき姿なのか。棒と風呂敷が究極のUDなのか。このような安直な結論 に留めないためにも、今後のモノづくりの指針となり得る「システム論」の構築を試みている。
φ ← 棒切れや風呂敷 ← 不便益な道具 ← 特定タスクに特化した道具 ← *
φ ← 汎用性 ← what we are looking for ← 特殊性 ← *
[古瀬98] 古瀬 敏 (編著): ユニバーサルデザインとはなにか, 都市文化社 (1998)
[UD98] 季刊 ユニバーサルデザイン, vol.1, 株式会社ジィー・バイ・ケイ内 ユニバーサルデザイン・コンソーシアム (1998)